5月17日 50mmっていう標準
職場で行く先々の部屋の湿度が高いです。
会議室、実験室、実験室、事務所、どこも高湿。
サラリと乾いた空気をエアコン先生に吐き出させようとするも、女性陣からは寒いと非難轟々。
エアコンの温度設定で一悶着あるのも夏の風物詩…
2つ目の投稿で早速機材の話。
みんな大好き50mmの話です。
のっけから言うと、わたしは50mmがあまり好きではないかもです。
50mmに対しては悲喜交交か愛憎半々か複雑な気持ちがあります。
以下、つらつらとその思いを綴ります。
50mmへの思いその① 出会い
カメラを、デジタル一眼レフを持ち始めて初めて買ったレンズはAF-S DX 35mmf1.8Gでした。
2008年か2009年の事です。
ええ、わたしはそれ以来ずっとNikon党です。
当時のわたしはとてもとても愚かで、今も愚かですが、レンズの型番がそれぞれ何を意味するかも知らず、ただ「35mmは人間の視野に近い画角を持ってるから使いやすいよ」という父の言葉だけを胸に、そのレンズをほぼ付けっぱなしで撮影してました。
初めての単焦点レンズの、そのボケ方にわたしはえらく感動し、「これ以上のレンズは無い!」と無知と若さからくる無鉄砲さで、周辺知識を仕入れようとせず、絞り開放でピンボケ写真を量産していました。
安く、軽く、描写も素晴らしいと、ほかのレンズの作例や情報を知らないだけなのに有頂天になっていました。
事実、当時DX35mmで撮った写真や、その時の撮影は記憶に残っていて、アホなりに楽しく撮っていたり、良くも悪くも今の基礎を作ったレンズです。
50mmへの思い ②知れば知るほど
50mm、50ミリ、ごじゅうみりたんしょうてん
各メーカーがそれぞれ数多くのラインナップを揃える焦点距離。
標準レンズは普段使うレンズが標準レンズなわけで、野鳥撮影なんかをする人からしたら300mmや400mmが標準レンズなんだとか。
メーカーからすると、販売やレンズラインナップの中心に50mmがあるんじゃないかしら。
中心に50mmを置いて、広角、望遠と広がっていく。
Nikonでも50mmは絞り開放値違いで何本も現行にラインナップされていた。
AF-S 50mmf1.8G
AF-S 50mmf1.4G
Ai 50mmf1.2S
去年ではこの三本が現行レンズとして販売されていて、わたしも3本とも持っていたし
旧AFタイプ(絞り環のついたDタイプ)の50mmf1.4Dも持っていたし、カール・ツァイスのPlanar 50mmf1.4も持っていた。
同じ時期に50mmを5本持っていたのです。
ここで我ながら謎なのが、「50mmは常用レンズじゃないのに買ってしまう心理」なのです。
常用するレンズ、単焦点は現状では
AF-S 28mmf1.4E、AF-S 58mmf1.4G、AF-S micro-nikkor 60mm f2.8G、AF-S 105mm f1.4E
です。
60mm以外の3本は三次元的ハイファイレンズでまた改めて紹介しますが、50mmは使わずで、いつもレンズ召喚のたびに売られてしまってます。
特にPlanarちゃん。好きだけど、長続きしない
よりを戻しては別れるダメカップルです。
その中、この中でAi 50mmf1.2Sは別格で常に手元に置いておきたい一本です。
これは愛しの一本。
50mmに触れるたびに思うことが
「50mmが得意なことは何だろう」ということ。
わたしがリスペクトするカメラマンの方は50mm万能説の支持者で実証者ですが、写真の腕が未熟な私は50mmを活かし切れておりません。
なんか、何を撮っても中途半端に感じます。
スタイルに合わないと切り捨てるのは楽ですが、切り捨てきれずズルズルと買っては手放すを繰り返す依存体質のダメ子。。。
50mmへの思い ③標準レンズとは
つらつら未練たらしく50ミリについて書いてきて、色々と思い返して考えてきたのだけども、
どんな時に50mmを欲しくなってきたか、とこの一点について考えてみた。仕事中に、というか会議中に。
一つ思い至ったのは「気持ちの整理をつけたい時」だったのかな、と。
何の話かという言葉ですが、自分は色々レンズを持ってますが普段撮るのは「近所の公園」で「子供」や「植物」や「水」の写真。
同じような写真になるので正直言って飽きてきます。
変化をつけるためにレンズを付け替えて撮っていても、なんとなく閉塞感というか、何をどう撮りたいんだっけ、と自分を見失いがちになります。
そういう時に新しい50mmを手に入れて撮っていると、50mmでの不足点が見えてきて、すなわち自分がどういう写真を撮りたいのか、見えてきます。
ボケの量なのか、画角の広さ(広角)なのか狭さ(望遠)なのか、寄りたいのか、なんなのか。
そういう自分の撮りたい気持ちをセットするための“標準“なのかなぁと。